論文抄録

第122巻第6号

討論

精神科における薬物療法の拡大をめぐる心理学的懸念―ニューロエンハンスメントをめぐる議論を参照して―
榊原 英輔
東京大学医学部附属病院精神神経科

抗うつ薬と精神刺激薬の処方量が増加している.処方量の増加は,正常と病理の境界が曖昧な領域で生じている.これらの領域における薬物療法の拡大に伴う問題を考察するには,「ニューロエンハンスメント」と呼ばれる,健常者の精神機能を向上させる目的で向精神薬などの生物医学的介入を用いることの是非をめぐる倫理学上の議論が参考になる.なぜなら,これらの領域では治療とエンハンスメントは連続的だからである.ニューロエンハンスメントに対する懸念は,生物学的,心理学的,社会学的なものに整理できるが,本論では,このなかでも心理学的な懸念を論じる.心理学的な懸念には,真正さが毀損してしまうのではないか,人間存在が卑小化してしまうのではないか,美徳を失ってしまうのではないか,という3つの論点がある.これらの議論を踏まえて,精神科医療における薬物療法の拡大の問題に立ち戻ると,薬物療法の新たな導入は,「所与の気質を出発点に自己を陶冶し,自然な感情とうまく付き合いながら,自分の行動を律していく」という,すべての人間が行ってきた実践を変容させてしまうという,見落とされがちな論点を指摘することができる.

キーワード
医療倫理, エンハンスメント, 向精神薬, 薬物療法